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武蔵音ファンクラブ

武蔵音(むさしのん)ファンクラブ

このコラムはSTUDIO LEDAスタッフによる、毎回独自のテーマを設けてお気に入りの音楽や映画や本等を紹介してゆくコーナーです。

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第五回「音楽は「間」。「間」が音楽。」(1/2)

もやもやしていたもの

こんにちは。今回の武蔵音ファンクラブは、いつものmacchoではなく、T.SUZUKIが担当します。よろしくお願いします。
最近、ある音楽を聴いて、長年音楽に対して自分の中で「もやもやしていた思いの固まり」みたいものが、ふと溶け出すのを感じたのです。
そのとき浮かんできたフレーズが「音楽は「間」。「間」が音楽。」というものでした。今回はこの言葉をテーマにアルバムを紹介したいと思います。

音符と音符の間をさまよって

楽器を習ったり演奏したことがある人なら、「楽譜に書かれていない音符と音符の間をどう感じて演奏するかが大切なんだよ」みたいなこと言われた経験ありませんか?
かつて僕もギターや打楽器や歌を少しばかり奏でていましたので、先輩プレイヤーとか習っていた先生などからときどき、今思えば「間」の感じ方についてアドバイスを受けました。
ところが当時も今も、何か大切なことなんだろうと感じつつも、結局のところつかみどころがなく、何がどう大切なのかも説明できず、今でもほんとのところわかってもいない気がしているのです。

「無」の境地こそ究極?!

現在一般的に普及しているポピュラー音楽のほとんどは、楽譜というものである程度記号化して表すことができます。それは西洋音楽(いわゆるクラシック音楽)がベースになっているからでしょう。
しかし、ひとたび西洋から外れ、世界中の音楽に触れてみればわかりますが、譜面ではとういて表せない音楽はたくさんあります。

楽譜に示されているのは、「音を鳴らすタイミング」、「音の高さ(便利なコード記号含む)」、どれだけ音を持続させるかという「音の長さ」、「テンポ」、「拍子」、あとせいぜい「音の強さ」といったあたりでしょうか。
なので譜面には例えば、ある音を鳴らしてから次の音を鳴らすまで「何考えてりゃいいか」なんて書いていません。もしかするとこの「間」で何を感じるかが表現者の個性になっているのかもしれません。
と言いながら、「何も考えない」という「無」の境地こそ究極に違いないとも思っています。
どうなのでしょう?「無」へ到達するまでのすったもんだこそがまた音楽の面白さだったりするかもしれません。

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だんだんとわけのわからない解説になってきました。次のページでアルバムを紹介します。

<続く>